Responsum ad Responsum
当方提示の第13命題及び第14命題に対して、神学ブログ「Devotion Time」の西原智彦氏より回状(レスポンス)がありました。
「Devotion Time」
西原氏は、上記二命題を「神への反逆の責任はどの時点で発生しているのか?」と要約した上で、論を展開し、こう結論しておられます。
すなわち
「人が神の御前に背負う『責任』は、アダムと共に神に反逆した原罪への責任なので、堕落後の能力の有無や福音到達の可否によって責任が目減りすることはない」
上記の結論に対して、小生は、このように考えるべきであるとします。
すなわち
「人が神の御前に背負う『責任』は、アダムと共に神に反逆した原罪への責任ゆえ、堕落後の能力の有無や福音到達の可否によって責任が目減りすることはない、とされるが、この責任をそのまま幼児も背負うのであるか? 然り、である場合、幼児が背負う『責任』を十全に償罪して<幼児の救い>を可能ならしめるところの神の無限の憐れみの恩恵は、いかにして、その対象を幼児のみに限定することになるか?」
かくして、小生は、第18命題を提示するものであります。
命題18
「ゴルゴダの十字架における主イエスキリストの代償死は、全人類の原罪を完全に贖う効力を有するのか、あるいは、人類の一部の原罪を贖う効力を有するに留まっているのであるか?」
一般恩恵が神の怒りが遅延されるという点と、一般恩恵においての聖霊の関与という点の両方を同時に受け入れるという考え方は間違っていますでしょうか?堕落前のアダムにおいては神の形に似せられた魂がありました。しかしそれは神様から分離・独立して存在したわけではなく、常に神様との親しき交わりと神様に依存することによって保たれていたのではないでしょうか。アダムにおいて与えられた「神のかたち」と「神との親しき交わり」とが完全に分離して考えられないように、一般恩恵においても「神のかたちの残滓」と「聖霊の関与」の両方を分離しないで考えるということは間違っているでしょうか?すなわち「神のかたちの残滓」が完全になくならないのは、キリストのあがないの恵みのゆえに神の怒りが遅延されている結果であり、聖霊がなくならないように保ってくれているためだという考えです。