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11/28 2008

それでもYoung Earth Creationismが創造論の王道なのはなぜ?

 キリスト教に関係するホットなディスカッションの1つに、「創造論」VS「進化論」があります。宗教的側面、科学的側面、歴史的側面が混在するディスカッションなので、正確な情報交換すら難しいのが実情ではないでしょうか。

 私自身は創造論支持者です。ただそれは、進化論を研究しつくした結果ではなく、聖書記者の言わんとしたことが聖書の唯一の意味であり真理である、という土台の上に人生を建てる選択をしたからです。ですから、進化論を論駁する、というようなことは私の専門外です。どんな学問分野においても、異なった見解の学者たちがしのぎを削って自論の正当性を証明しようと励んでいるように、進化論支持者の方も自らのフィールドで励んでいただきたいと思います。私自身はキリスト教神学、聖書学、考古学という私のフィールドで励みます。

 さて、キリスト教神学の視点からみる宇宙の始まりの理解は、以下の7つに大別できるでしょう・・・。
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10/16 2008

アブラハムの故郷「ウル」はどこ?

 ウルという地は、信仰の父アブラハムが生まれ、神によって連れ出された出発場所です。その地名は聖書に4回登場します(創世記11:28; 11:31; 15:7; ネヘミヤ9:7)。ヨシュア記24:2-3にはウルという地名は出ませんが、その地は「ユーフラテス川の向こう」にあり、そこにおいてアブラムの父テラは、異教の神々へ仕えていたことが記されています。神はアブラムたちを、そのような異教的生活の地から連れ出して、約束の地へと導き出されました。現代を生きるクリスチャンにもその祝福が及ぶことを思うとき、真に偉大な信仰の旅立ちだったわけです(ガラテヤ3:14)。


カラー聖書ガイドブック (137)によるアブラハムの出発場所ウル
 さて、ウルの場所については常々、シュメールをB.C.2112年頃から2004年頃まで治めたウル第3王朝の首都であるウルであるとされてきました。「そこは南イラクでユーフラテス川に沿ったナシエリーの西14キロの所」(シュルツ 48)にあり、「シュメールの首都」(ワルブードら 46)です。多くの聖書地図において、そこをアブラハムの出発地点として記しています(カラー聖書ガイドブック 137など)。



The Moody Atlas of Bible Lands (81)によるアブラハムの出発場所ウル
 一方、アブラハムの故郷であるウルを、シュメールの首都とは捉えず、別の場所の都市として理解する人たちが近年現れました。ベイツェルは自著「The Moody Atlas of Bible Lands 」において、アブラハムの故郷のウルを、ハランから東に150km程の地域として地図を記しています。どちらの理解が歴史的に正確なのでしょうか。


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09/23 2008

創世記3:15は原福音?

 「わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(新改訳)という創世記3章15節は、しばしばprotoevangelium(原福音)と呼ばれます。「Paradise to Prison」に記したデービスの言葉は、その意味を的確に表しています、「女の子孫とは明らかに、メシアである主イエスを言及しています […] この原福音は、キリストがサタンに死をもたらすことを予言したのです」(93)。「彼」という男性第三人称単数の指示代名詞を一個人のメシアと捉えるこの解釈は、紀元前3,2世紀に遡る、とマーティンは記しています(427)。教会教父の中ではエイレナイウスが最初にこの理解を示しています(Against Herecies 548-49)。現代でもアーチャー(438)や、リューポルド(165-66)、アレクサンダー(32)はこの理解を支持しています。

 一方、「女の子孫」を「人類」と理解する人たちもいます。旧約学者のキショルムは自著のヘブル語文法書「From Exegesis to Exposition」において、この聖句を創世記22:17と比較しながら、「創世記3:15において、単数の名詞と指示代名詞があるという事実だけでは、”子孫”が指し示すものを、ある個人とみなす必要性はない」(60)と言っています。ウェンハム(79)、コーレル(157)、シンプソン(508)、セイドン(69-92)、ラッド(92-93)、ウィルフォール(361-65)も同様の立場をとっています。彼らによればこの聖句は、蛇と人類の継続的な争いを語っているに過ぎません。どちらの理解がふさわしいのでしょうか。


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09/12 2008

そよ風の吹くころ・・・創世記3章の神はやさしい?厳しい?

 創世記3章は、人の堕落、罪の始まりの記事として、聖書の中でも非常に重要な位置を占めています。3章が語る罪、そして罪に対する神の裁きを誤って理解するならば、罪からの救いの理解にも大きな悪影響を与え、キリスト教の根幹を揺らがすことになるでしょう。

 その創世記3章から罪の悲惨さの度合いを読み取るとき、案外大きな影響力を与えているのが8節冒頭の「そよ風のふくころ」(新改訳)という表現です。そよ風というやさしそうな表現は、罪の悲惨さやそこから生じる神の裁きとは程遠く、かえって罪の赦しや神の愛を感じさせます。NKJV、RSV、NASB、NIVなどでは”In the cool of the day”と訳されていますので、時間帯としては夕刻をイメージさせます。A. フラーはそのような視点にたって、このように記しています。

[…] それは神にとって、被造物の元に訪ねる時であり、人との関わりにおいてはおそらく、反省のときを表しているのでしょう。私たちは日中に罪を犯しても、神は夜に、説明を求めて私たちを呼ばれるのです。(78)


G. ウェンハム、U. カッスト(152-54)も同様の理解をしています。

 一方、この「風」を「神の激しい憤りと裁きを表す嵐」と理解する人もいます。J.H.セイルハマーは、この句には「涼しい」とか「夕方」といった表現はなく、「日の風」と書かれているだけであることに触れながら、以下のように記します。

主が訪れたこの時は、しばしば「日の涼しいころ」とか「夕方のころ」と訳されますが、本文には「日の風」と記されています。文脈には一日の何時ごろかについて何も触れられていないのです。神が裁きと力をもって来られる様子を語る一般的な文脈から言えば、著者が心に描く「風」(ruah)とは、1列王記19:11における「主の山」で吹いた「激しい大風」(ruah gedolah wehazaq)だったのです。ですから、この物語は、主がヨブに「あらしの中から」(ヨブ記38:1)答えた箇所とまったく同じなのです。(52)


 創世記3:8の「そよ風のふくころ」とは、罪人に反省を促すための神のやさしさをあらわす、夕刻のすずしい風なのでしょうか。それとも、罪に対する神の厳しい裁きをあらわす嵐なのでしょうか。

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09/19 2005

創造の「日」は24時間?それとも長期間?

創世記1章の創造の「日」の解釈には2通りあります

 創世記1:5には「夕となり、また朝となった。第一日である。」(口語訳)とあり、それ以後、創造の「日」が第七日まで続きます。この「日」(ヘブル語ではヨーム)は字義的な24時間として捉えられる場合があります。代表的な団体としてクリエーション・リサーチ(旧・創造科学研究会)があります。クリエーション・リサーチは「・・・聖書の天地創造の記述のとおり、『創造主』なる方によって、宇宙・地球・いのち全てが6日間(1日は文字通りの24時間)で造られたことを信じ」(強調は付け足し)ていると明言しています。
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ブロガー: 西原智彦
1972年広島生まれ。ロボットが好きで工学修士に(1996)。聖書に惚れ込み、実践神学修士に(2005)。(さらに詳しく >>)

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