07/11 2020

聖餐式の杯の歴史に学ぶ、感染症へのキリスト教界の対応

 教会の礼典の一つに聖餐式(主の晩餐)があります。イエス・キリストのからだを表すパンを食し、キリストが十字架で流される血を表す葡萄液を飲むわけですが、実は十九世紀の終わりまで世界中の大半の教会が一つの杯に入った葡萄液を回し飲みしました。

 聖餐式の杯が記されている聖書の9か所すべてにおいて、「杯」が単数形であり、イエスの弟子たちは「みなその杯(単数形)から飲んだ」(マルコ14:23)のであり、パウロもコリント教会に対して「杯(単数形)を飲みなさい」(1コリ11:28)と命じています。聖書時代の聖餐式では、明らかに一つの杯を回し飲みしており、これに反論する学者は見当たりません。

 また、キリスト教史においても1890年代に至るまで、同じ杯を回し飲みしていました。ある教会では聖書時代と同じく一つの杯を、ある教会では時間短縮のために聖餐式の中で一つの杯からいくつかの杯に分配して、またある教会では男性用・女性用・奴隷用の三つの杯を用いて回し飲みしました(D. Moody, "The Word of truth: A Summary of Christian Doctrine Based on Biblical Reveration," p472)。しかし、十九世紀の終わりに、ジフテリアと結核が蔓延し、米国では公衆衛生学者が教会における杯の回し飲みを見直すよう働きかけました(Brenda T Mar, "WHO FIRST ADOPTED INDIVIDUAL CUPS AS A REGULAR COMMUNION PRACTICE?")。1891年12月6日、オハイオ州クレバランドのスコビルアベニュー・メソジスト教会において、初めて現在の形での、小さな個人用カップで聖餐式が行われました。それ以後、全米で急速に広まりました。改革派、長老派、農村部の教会などは一つの杯を固持しましたが、1918年のスペイン風邪パンデミックにより、完全に行われなくなりました。

 しかし近年、北米改革長老派教会(RPCNA)において、「聖書的」な聖餐式として一つの杯による司式を復興させる動きがあります。同教団の長老会は2001年2月14日に論考をまとめました("The Common Cup:
Evaluated From A Biblical, Historical, and Medical Perspective
")。聖書神学的、歴史神学的に一つの杯の妥当性が再確認されるのは当然のこととして、注目すべきは医学的見地からの議論です。感染症は自分のみならず他者を死に至らせることもある、という公衆衛生の観点から杯の回し飲みは廃れたわけですが、その理解への反駁を四点記しています。

第一に、「殺してはならない」(出エジプト20:13)という第六戒は殺害を禁じているのであって命を守るよう命じてはいない。杯の回し飲みは必ずしも命を危険に陥れるものではない。もし一つの杯による聖餐式と第六戒が矛盾しているというならば、両方を制定された神ご自身が矛盾している、ということになる。

第二に、聖書時代の感染症の猛威は現代よりひどかった。もし杯の回し飲みが人の命を奪って第六戒に反するのであれば、イエス・キリストによる最後の晩餐も第六戒に反することになる。

第三に、感染症防止のために個別のコップを使用することのほうが愛にあふれているというのであれば、弟子たちに一つの杯で聖餐式を執り行ったイエス・キリストよりも現代人のほうが愛にあふれているということになる。

第四に、感染症防止のために個別のコップを使用することのほうが賢いというのであれば、つまるところ、可視的地域教会に集い、礼拝し、挨拶を交わし、交わりをもつことをあきらめることになる。全知のキリストが個別のコップを利用されなかった。

 説得力ある論理ですが、何か違和感を感じます。超保守的な色合いと再建主義の香りもします。その違和感は、高い公衆衛生の下での個別コップによる聖餐式しか経験したことのない現代人だからかもしれません。しかし、それだけではない神学的偏りから生じている側面もあります。

 第一に、仮にイエス・キリストが感染症拡大の最中で杯の回し飲みによる聖餐式を制定されたのであれば、RPCNAの論に説得力がありますが、聖書にはそのような記述はありません。

 第二に、RPCNAの論の土台には「一つの杯には教会の一体性という意味が込められている」という強い理解があります。それは誤っているとはいえませんが、聖餐式において明確に教会の一体性を意味しているのは一つのパンです(1コリント10:17)。葡萄液はキリストの血による新しい契約を表していて、それは弟子たちのため(ルカ22:20)であるとともに「多くの人のため」(マタイ26:28、マルコ14:24)です。

 第三に、RPCNAが固執しているのは「一つの杯」と「回し飲み」の両方ですが、「回し飲み」にどのような意味を見出しているのか不明瞭です。たしかに最後の晩餐では回し飲みがされましたが、聖書にもキリストの言葉の中にも、その行為に対する普遍的意味を見出すことは難しいです。聖餐式の中で、一つの杯から個別のコップに分配することで対応できます。実際、感染症が蔓延する時にプロテスタントにおいてもそうされた歴史があります。

 聖書の記述から普遍的真理を紡ぎだして現代に適用する、という釈義と適用のルールが乱れる時、「聖書的に思えるが、時代錯誤にも感じる違和感」ある信仰体系になるのではないでしょうか。南部バプテスト連盟の神学者D.ムーディーがこのように言っています、「初期の教会は2つの礼拝をささげていました。早朝の礼拝はバプテスマを受けた信者だけであり(1コリント10,11章)、午後の第二礼拝には未信者や部外者が招かれていました(1コリント14章)・・・もしこのパターンに従わなければ主の晩餐に関して新約聖書の実践を完璧に復興することは難しいです。現代に至る歴史の学びは、私たちの実践方法の発展に役立つでしょう」。

 キリスト教界は聖餐式に関する1900年間の伝統を、公衆衛生のために十数年間で覆しました。普遍的真理の部分だけに固執して、現代にふさわしい手法を取り入れる、という変化を選択しました。杯の取り扱いは変わりましたが、おおくの人のために流されたキリストの血に感謝し、記念し、反省するという普遍的真理は変わりません。イエス・キリストご自身が制定された礼典であっても真理を曲げることなく柔軟に、変化を選択したキリスト教界ですから、たとえ新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの影響がいかに大きくても、真理を曲げることなく柔軟に、教会における礼拝を継続していくに違いありません。その新しい道を見出すために、激論を交わすことがあったとしても互いを尊敬し、真理にひれ伏し、交わりを継続し、主が切り開いてくださる次の時代に期待したいと思います。
04/19 2009

【連載1】 聖徒の保持VS堅忍 - 信仰者への命令からの一考

 お気づきの読者の方も多いかもしれませんが、私の組織神学的興味の1つには「聖徒の保持」があります。エントリー「聖徒の堅忍?それとも保持?【課題明確化編】」にて記したとおり、カルヴィニズムの5特性の1つに数えられながら、実践的には限りなくアルメニアン神学と類似している課題です。そして私自身はこの課題に関しては、カルヴィニズムでもアルメニアンでもない、「聖徒の保持」を聖書は支持していると理解しています。そしてこの課題は、カルヴィニズムVSアルメニアンという組織神学的対立関係で捉えるよりも、聖徒の堅忍VS聖徒の保持という実践神学的対立関係で捉えるほうがインパクトが強くなるのではないか、と考えています。これから数回にかけて、随筆的に色々な視点から記して見たいと思います。第一回目は「信仰者への命令からの一考」です。


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01/12 2009

【引用 救丞論-聖徒の堅忍】 J.F.MacArthur, Jr

今年より、勉強中の各種資料における重要文章の引用を、記録のためにアップすることにしました。これまでと同じく、著作権法第32条「引用」に準じておこなっていきます。解説抜きの場合が多々あると思いますが、「こんな方面の資料をよんでいるのかあ」程度にご参考下さい。引用内容にご意見、ご質問がある方は、コメントしてくださっても結構ですが、詳しく知りたい方は著者に直接お聞き下さい(あくまで著者の文章の引用ですので)。

MacArthur, Jr. John F. "Perserverance of the Saints." Master's Seminary Journal. 4:1. 5-23. より


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11/16 2008

聖書の間違いを感じたときの2つの対応

 聖書の中には一見すると「あれ?矛盾してるんじゃない?誤りじゃないかな?」と思うような箇所があります。キリスト教を捨て去る人の中には、ある意味真剣にこの種の間違いに思える聖句を丹念に調べて信仰を捨て去る人もいるようです。中には、この種の間違いに思える聖句から、新しい神学を展開する人もいます。

 この種の議論は、「聖書の真実性を守ろう」という意志をもって真剣に聖句を勉強しない(もしくは、したくない)結果である場合が大半です。私としては「相手に恥をかかせてもいけないかなあ」という日本的自制心と、「実りの少ない議論に首を突っ込んでもなあ」という保身的感覚が働いて、二の足を踏むところがあります。ただ、ネット上や一般書店では、案外この手の情報が先行し、純粋なクリスチャンを惑わす結果になるので、日本人のキリスト教保守派の聖書・釈義神学者や考古学者の誰かが情報発信して、明らかな証拠をもって論駁しまくってほしいなあ、と思っています。

 とくに、19世紀の終わりから20世紀にかけて旧約聖書は、その真実性への疑いをかけられっぱなしだった、といえます。キリスト教信仰の世俗化に伴って、旧約聖書の歴史的真実性への疑いが高まり、当時は考古学が発展していなかったために適切な論駁ができず、信仰を守ることが難しくなりました。そして、近代神学者たちによるJEDP説によって、旧約聖書はボロボロに断片化され、それこそが知的なキリスト教と思われました。しかし、20世紀後半からはじまった中近東の考古学の爆発的発展によって、JEDP説は学問的に論拠がなりたっていないことが次々に発覚し、21世紀の現代、旧約聖書の世界ではまさに保守派復権の世紀になったといえるかもしれません・・・

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06/14 2008

贖罪による一般恩恵

(このエントリーの目的は、キリストの贖罪の範囲について著者西原智彦がとる立場<贖罪による一般恩恵、もしくは一般効果 "General Efficacy of Atonement">が、カルヴィニズムとも穏健カルヴィニズムとも異なることを説明し、その立場を明確にすることです。この立場には正式名称がないため、西原は修士論文にてGeneral Efficacy of Atonementと名づけています。このエントリーでは頭文字をとってGEAと呼びます。)

 キリストの贖罪(Atonement)は、必ず何かしらの「効果」(efficacy)をもたらすはずです。この点においてGEAはカルヴィニズムにない、しかも穏健カルヴィニズムにもない、明快な理解を与えてくれます。GEAの立場を明らかにするために、第一にカルヴィニズムによる贖罪の効果の理解とその問題点について、第二に穏健カルヴィニズムによる贖罪の効果の理解とその問題点について、触れます。そして最後に、GEAによる贖罪の効果の理解を説明し、その優れた点を評価します。

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Profile

ブロガー: 西原智彦
1972年広島生まれ。ロボットが好きで工学修士に(1996)。聖書に惚れ込み、実践神学修士に(2005)。(さらに詳しく >>)

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