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ロマ11:26「イスラエルはみな救われる」には大きく分けて3つの理解があります「こうして、イスラエルはみな救われる」(ロマ11:26)という聖句は、理解に苦しむ最も困難な箇所の一つです。9章から11章にかけて神の選びについて語るパウロは、そのクライマックスとして11:25-26を語っているといってよいでしょう。この箇所の理解には大きく分けて3つの理解があります。
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Major Mak's Daryのエントリ「
反セカンドチャンス論者を1分で完全論駁する」に記した私のコメントを、忘れないために以下にCCしました。
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Yamaya氏はMajor Mak's Diaryのエントリ「
反セカンドチャンス論者を1分で完全論駁する」のコメント欄にて、ロマ書10:6-7を引用されながら、以下のような命題を記されています。
命題19
「聖パウロ、ローマ書第10章に曰く「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。これは、キリストを引き降ろすことにほかならない。『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになる」と。こう言われているとき、人がある人について『彼は生前福音を聞かなかったゆえ、死したいま底なしの淵に下っているに違いない』と言明するのは、適切なことであるか、あるいは、不適切なことであるか?」
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エントリ「
神への反逆の責任はどの時点で発生しているのか?」に対して、Yamaya様が
応答のコメント等を以下のようにされています。
Responsum ad Responsum
当方提示の第13命題及び第14命題に対して、神学ブログ「Devotion Time」の西原智彦氏より回状(レスポンス)がありました。
「Devotion Time」
西原氏は、上記二命題を「神への反逆の責任はどの時点で発生しているのか?」と要約した上で、論を展開し、こう結論しておられます。
すなわち
「人が神の御前に背負う『責任』は、アダムと共に神に反逆した原罪への責任なので、堕落後の能力の有無や福音到達の可否によって責任が目減りすることはない」
上記の結論に対して、小生は、このように考えるべきであるとします。
すなわち
「人が神の御前に背負う『責任』は、アダムと共に神に反逆した原罪への責任ゆえ、堕落後の能力の有無や福音到達の可否によって責任が目減りすることはない、とされるが、この責任をそのまま幼児も背負うのであるか? 然り、である場合、幼児が背負う『責任』を十全に償罪して<幼児の救い>を可能ならしめるところの神の無限の憐れみの恩恵は、いかにして、その対象を幼児のみに限定することになるか?」
かくして、小生は、第18命題を提示するものであります。
命題18
「ゴルゴダの十字架における主イエスキリストの代償死は、全人類の原罪を完全に贖う効力を有するのか、あるいは、人類の一部の原罪を贖う効力を有するに留まっているのであるか?」
Major Mak's Diaryのコメント欄にコメントはさせていただいたのですが、コメント内容を忘れないために、私のブログのエントリにも書き留めておきます。
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Makoto Yamaya様がMajor Mark's Diaryにて、エントリ『
反セカンドチャンス論者を1分で完全論駁する』 を記され、セカンドチャンス論を擁護されています。「改革派神学の観点には『詰め切れていない点』があることを、ぜひとも指摘したくなって、このエントリーに至った」(ご本人のコメント)そうなので、論点が幼児領域(改革派神学的には契約神学といったほうがよさそうか?)に集中しています。私はYamaya様が言うところの「反セカンドチャンス論者」なのですが、改革派でもないので、エントリ自体の議論に参加する状況ではなさそうです(とはいえ、ちかぢか反セカンドチャンス論者として1ペテロ3:19の釈義エントリを記したいとは思っています)。
ただ、エントリに続くコメント欄に記された命題の中に、ここは一言意見しておきたいな!と思うところがありましたので、応答したいと思います。ちなみに、応答したくなった命題は13と14です(ところで、Yamaya様の『命題』はすべて質問形式で、Yamaya様自体の理解が明言されていないのがなんとも残念で、かつ応答しづらいです)。以下に命題を引用します。
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