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9月もDevotion Timeをご利用頂き、心から感謝いたします。今月、当ブログDevotion Timeにて最も多くのアクセスを集めたエントリー3つと、最も閲覧時間が長かったエントリー3つを発表します!今月のご利用状況によりますと、良く分からないブログだなあ、と思われている方が大勢おられるのではないか、と心配しております。といいますのも・・・
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「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(新改訳)という使徒の働き16:31は、家族の救いのために祈るクリスチャンにとって、最も励まされる御言葉の1つです。しかし、時に、「私がイエス・キリストを信じれば、家族も救いの恵みに必ず預かるのだ」と考え、この御言葉を、
私の信仰によって家族が必ず救われる約束として受け止められる場合があります。たとえば日本キリスト改革派教会中部中会日曜学校委員会が発行する「
子どもカテキズム」の問73には、クリスチャンの子供に幼児洗礼を施す証拠聖句の1つとして使徒16:31を挙げ、このように理由を記しています。
キリスト者の子どもは、恵みの契約によって、教会の中に入れられていますから、洗礼を施します。そのほかには、信仰を告白して、教会に許された人でなければ、洗礼を施してはなりません。
「恵みの契約」というのは改革派神学特有の概念で、一言で言うと「神が、キリストの贖いを根拠として、信仰告白者たちとその子供たち全体を救われること」と言えます。鈴木氏によると、長老改革派が信者の子供に幼児洗礼を施す根拠は、アブラハムとその実の子孫が霊的・現世的祝福を得る契約の証印として受けた割礼にあります。使徒16:31を引用しながら、旧約の割礼から幼児洗礼へと類推して「恵みの契約は、福音の豊かさゆえに、新約の時代になっても適用範囲が拡大されることはあっても縮小されることはない」(1032)と言っています。非常に複雑な理論ですが、要するに使徒16:31の御言葉を、「私個人の信仰によって、少なくとも私と私の子供は救われる」と理解しているようです。
一方、この聖句を「私の身にも起こった神の救いは、同じように家族にも実現可能である」という
家族の救いの実現可能性として受け止める人もいます。ルイースとディマーストは共著「Integrative Theology」にてこのように記しています。
kai ho oikos sou(『あなたの家族も』という句のギリシャ語。訳者注) という句は、看守の信仰が彼の家族を救ったという意味ではなく、彼の身に起きたと同じことが家族にも起こるチャンスが開かれていたという意味であるというのは重要です。(3:265)
もしそうであれば、家族の中にクリスチャンがいてもいなくても、親がクリスチャンであろうがなかろうが、永遠の滅びから救われるためには、年齢によって区別なく一人一人がイエスを主と信じなければいけません。一体、使徒16:31はどちらの意味で理解すべきなのでしょうか。
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写真は私の尊敬する教師、
ではありませんのであしからず・・・ 「~歳までにすべきこと」系の書籍って、本当に多いですね。20代の頃、時々立ち読みしては、「よし、これやろう!」と奮起していました。しかし、30代後半になると「時すでに遅し」の本が多くなってきて、なんとなくビジネス系単行本コーナーに向かう足が重くなっているような気がします・・・。
やたらに人生を急き立てる情報が氾濫する中で、私もときどき、自分のなすべきことを見失いそうになることがあります。そんなときにいつも思い出すのは、ある一人の尊敬する神学教師から頂いたアドバイス。それが「65歳までにやってはいけないこと」です・・・。
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「わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(
新改訳
)という創世記3章15節は、しばしばprotoevangelium(原福音)と呼ばれます。「Paradise to Prison」に記したデービスの言葉は、その意味を的確に表しています、「女の子孫とは明らかに、メシアである主イエスを言及しています […] この原福音は、キリストがサタンに死をもたらすことを予言したのです」(93)。「彼」という男性第三人称単数の指示代名詞を一個人のメシアと捉えるこの解釈は、紀元前3,2世紀に遡る、とマーティンは記しています(427)。教会教父の中ではエイレナイウスが最初にこの理解を示しています(Against Herecies 548-49)。現代でもアーチャー(438)や、リューポルド(165-66)、アレクサンダー(32)はこの理解を支持しています。
一方、「女の子孫」を「人類」と理解する人たちもいます。旧約学者のキショルムは自著のヘブル語文法書「From Exegesis to Exposition」において、この聖句を創世記22:17と比較しながら、「創世記3:15において、単数の名詞と指示代名詞があるという事実だけでは、”子孫”が指し示すものを、ある個人とみなす必要性はない」(60)と言っています。ウェンハム(79)、コーレル(157)、シンプソン(508)、セイドン(69-92)、ラッド(92-93)、ウィルフォール(361-65)も同様の立場をとっています。彼らによればこの聖句は、蛇と人類の継続的な争いを語っているに過ぎません。どちらの理解がふさわしいのでしょうか。
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創世記3章は、人の堕落、罪の始まりの記事として、聖書の中でも非常に重要な位置を占めています。3章が語る罪、そして罪に対する神の裁きを誤って理解するならば、罪からの救いの理解にも大きな悪影響を与え、キリスト教の根幹を揺らがすことになるでしょう。
その創世記3章から罪の悲惨さの度合いを読み取るとき、案外大きな影響力を与えているのが8節冒頭の「そよ風のふくころ」(
新改訳
)という表現です。そよ風というやさしそうな表現は、罪の悲惨さやそこから生じる神の裁きとは程遠く、かえって罪の赦しや神の愛を感じさせます。NKJV、RSV、NASB、NIVなどでは”In the cool of the day”と訳されていますので、時間帯としては夕刻をイメージさせます。A. フラーはそのような視点にたって、このように記しています。
[…] それは神にとって、被造物の元に訪ねる時であり、人との関わりにおいてはおそらく、反省のときを表しているのでしょう。私たちは日中に罪を犯しても、神は夜に、説明を求めて私たちを呼ばれるのです。(78)
G. ウェンハム、U. カッスト(152-54)も同様の理解をしています。
一方、この「風」を「神の激しい憤りと裁きを表す嵐」と理解する人もいます。J.H.セイルハマーは、この句には「涼しい」とか「夕方」といった表現はなく、「日の風」と書かれているだけであることに触れながら、以下のように記します。
主が訪れたこの時は、しばしば「日の涼しいころ」とか「夕方のころ」と訳されますが、本文には「日の風」と記されています。文脈には一日の何時ごろかについて何も触れられていないのです。神が裁きと力をもって来られる様子を語る一般的な文脈から言えば、著者が心に描く「風」(ruah)とは、1列王記19:11における「主の山」で吹いた「激しい大風」(ruah gedolah wehazaq)だったのです。ですから、この物語は、主がヨブに「あらしの中から」(ヨブ記38:1)答えた箇所とまったく同じなのです。(52)
創世記3:8の「そよ風のふくころ」とは、罪人に反省を促すための神のやさしさをあらわす、夕刻のすずしい風なのでしょうか。それとも、罪に対する神の厳しい裁きをあらわす嵐なのでしょうか。
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