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09/12 2008

そよ風の吹くころ・・・創世記3章の神はやさしい?厳しい?

 創世記3章は、人の堕落、罪の始まりの記事として、聖書の中でも非常に重要な位置を占めています。3章が語る罪、そして罪に対する神の裁きを誤って理解するならば、罪からの救いの理解にも大きな悪影響を与え、キリスト教の根幹を揺らがすことになるでしょう。

 その創世記3章から罪の悲惨さの度合いを読み取るとき、案外大きな影響力を与えているのが8節冒頭の「そよ風のふくころ」(新改訳)という表現です。そよ風というやさしそうな表現は、罪の悲惨さやそこから生じる神の裁きとは程遠く、かえって罪の赦しや神の愛を感じさせます。NKJV、RSV、NASB、NIVなどでは”In the cool of the day”と訳されていますので、時間帯としては夕刻をイメージさせます。A. フラーはそのような視点にたって、このように記しています。

[…] それは神にとって、被造物の元に訪ねる時であり、人との関わりにおいてはおそらく、反省のときを表しているのでしょう。私たちは日中に罪を犯しても、神は夜に、説明を求めて私たちを呼ばれるのです。(78)


G. ウェンハム、U. カッスト(152-54)も同様の理解をしています。

 一方、この「風」を「神の激しい憤りと裁きを表す嵐」と理解する人もいます。J.H.セイルハマーは、この句には「涼しい」とか「夕方」といった表現はなく、「日の風」と書かれているだけであることに触れながら、以下のように記します。

主が訪れたこの時は、しばしば「日の涼しいころ」とか「夕方のころ」と訳されますが、本文には「日の風」と記されています。文脈には一日の何時ごろかについて何も触れられていないのです。神が裁きと力をもって来られる様子を語る一般的な文脈から言えば、著者が心に描く「風」(ruah)とは、1列王記19:11における「主の山」で吹いた「激しい大風」(ruah gedolah wehazaq)だったのです。ですから、この物語は、主がヨブに「あらしの中から」(ヨブ記38:1)答えた箇所とまったく同じなのです。(52)


 創世記3:8の「そよ風のふくころ」とは、罪人に反省を促すための神のやさしさをあらわす、夕刻のすずしい風なのでしょうか。それとも、罪に対する神の厳しい裁きをあらわす嵐なのでしょうか。

神の厳しい裁きをあらわす嵐と思われます


第一の理由は、「そよ風」という理解は70人訳やラテン語訳聖書等の影響であり、ヘブル語直訳では「日の風」(レルアッハ ハイヨーム)という表現でしかないからです

 ヨームというヘブル語には、日、時、季節、日中といった意味はありますが、夕方という意味はありません。しかし、ギリシャ語訳である70人訳(セプタギンタ)はこの2語で構成される句を、「το διλινον」(『夕刻になって』。τοは冠詞)という一語に置き換えて「夕方」という概念を勝手に作り上げています。しかしその結果、「風」という概念がなくなってしまい、もともとの意味からは遠く離れてしまっています。「ad auram post meridiem」(『夕刻のそよ風において』)と訳したラテン語訳聖書ブルガダが、セプタギンタの影響を受けつつ、風という概念を復興させたのは、かなり明白でしょう。死海写本発掘以後、マソラ本文とは異なるHebrew Vorlageの存在を意識することも重要となりましたので、レルアッハ ハイヨームとは異なる句が存在した可能性もないとはいえません。しかし、セプタギンタとブルガダ間でも大きな違いが存在し、さらにアラム語訳のタルグムでは「静寂の時に」(『リムナー ヨマー』)と別の意味に訳されていることから、ヘブル語聖書における写本の違いはなく、ヨームというヘブル語の解釈の差異が翻訳に現れた、と見るべきです。この原点に戻るとき、「日の風において」という表現を「そよ風の吹くころ」と意訳できる理由は文法的に見当たりません。

第二の理由は「日」(ヨーム)というヘブル語には、アッカディア語から派生した「嵐」という意味もあるからです

 今でも権威あるヘブル語辞書The Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon (BDB)は、20世紀中ごろ以降の爆発的な考古学の発展(死海写本の発掘や、セム語系諸原語学の発展)以前に出版されたため、ヨームという単語には「日」とは異なる「嵐」という意味があることが分かっていませんでした。アッカディア語のumuには一義的には「日」という意味があり、その関連性はBDBにも記されています(398)。ところが、umuというアッカディア語には二義的に「嵐」という意味があることが分かり、ヘブル語においてもゼパニヤ2:2、雅歌2:17、4:6でのヨームはこの意味であろう、とThe Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testamentには記されています(401)。特にアッカディア語では神々との関わりにおいてumuが使用される場合、嵐という意味をもちます。ニヌルタ(シュメールの神)は「強大な嵐(umu rabu)」とアッカディア語で呼ばれ、アッシュールの神は「怒りの嵐(umu nanduru)」、エンリルの神ベルは「全能のベル、その言葉に変化の影なく、嵐(umu)であるベルは牛舎を壊し、羊の群れを引き裂く」と表現されています。神々を表す嵐という意味合いのアッカディア語のumuと同じ意味合いで、創世記3:8のヨームは用いられて、真の神の裁きを表現した、と理解することができます。「日の風」よりも「嵐の風」のほうが意味が明白です。

第三の理由は、文法的には7節と8節は時間的・内容的に継続しており、「昼に罪を犯したアダムのところへ、神は夕方訪れた」とは理解しずらいからです

 レルアッハ ハイヨームという句を「そよ風の吹くころ」(新改訳)と理解する背後には、3:1-7と3:8以降の間に時間的ギャップがある、という想定があるようです。フラーが「・・・日中に罪を犯しても、神は夜に、説明を求めて私たちを呼ばれるのです」(78)と言っているのはそのことしょう。新改訳聖書新共同訳聖書の訳し方は、レルアッハ ハイヨームという句をあえて冒頭に移動し、それ以前の節からの時間の経過を意識させています。

 しかしヘブル語において8節は、「そして彼らは聞いた・・・」(ワイイシュメグゥー)という動詞から始まり、しかも継続のワウ+未完了形(Waw Conjunctive + imperfect / preterite)という、時間的、内容的に継続する用法が用いられています。もし7節と8節を時間的に中断させ、罪を犯した後に何かしらの反省の時をもつことができるように神が時間を用意されたことが意図されているのであれば、継続のワウではなく、離接続のワウ(Waw Disjunctive)を使用したはずです。

その上、レルアッハ ハイヨームという句は「園を歩き回る」という句に修飾して、共に関係節として「神である主」を修飾しています。もし、レルアッハのレ(前置詞)を時を表す前置詞として理解すると、「日の風の時に行き来する神の声を彼らは聞いた」となり、何かアダムとエバが時空を超えた場所から聞いたような不思議な表現となります(The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament. 508. とは異見)。しかも日の風の時、という時がいつなのか分かりません。しかし、前置詞レを場所・方向を表す前置詞として理解すれば、「歩き回る」という動詞と組み合わさり、「嵐の風の中を行ったり来たりする」という表現となり、アダムとエバが罪を犯して隠れてしまったことに対する神の憤り、苛立ちを見事に読み取ることができます。

結語


 「そよ風」はやさしさ溢れる表現です。もしレルアッハ ハイヨームという句が「そよ風の吹くころ」という意味であるならば、次のような解釈が出るのも当然でしょう。

そよ風とはなんとこころ優しい響きでしょう […] そよ風に浸るとき、身も心も洗われて清い明るい思いに満たされるのではないでしょうか […] そよ風の吹くころとは、だれもが魂の目を覚まし、霊的感覚が鋭くなるときと言えます。神さまはそのときを待っておられたのです。アダムとエバの魂が神さまの真実に目覚め、本心に立ち返るのを。


 しかしこの句は、下部批評学的にも、語義的にも、文法的にも、嵐の風をさしていると思われます。創世記3章の中心テーマは、最初の罪に対する神の憤り・裁きなのです。ニーハウスの訳ほど、8節の訳としてふさわしいものはないでしょう。

そして男と彼の妻は、嵐の風の中、園を行ったり来たりする主なる神の憤りを聞き、彼らは園の木の間に、主なる神から隠れた。



参考文献


Brown, Francis, S. R. Driver, and Charles A. Briggs. Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon. Reprinted. Peabody, Mass.: Hendrickson, 1979.

Cassuto, U. A Commentary on the Book of Genesis: From Adam to Noah: From Noah to Abraham. Jerusalem: Magnes. 1996.

Fuller,Andrew. "Three Expository Discourses on Genesis1". Southern Bapitst Journal of Theology 5:3. 76-84.

Koehler, Ludwig, and Walter Baumgartner. The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament. Rev. Walter Baumgartner and Johann J. Stamm, trans. and ed. under the supervision of M. E. J. Richardson. Study ed. 2 vols. Leiden: E. J. Brill, 2001.

Niehaus, Jeffrey J. God at Sinai. Grand Rapids: Zondervan, 1995.

Sailhamer, John H. . “Genesis.” The Expositor's Bible Commentary. Ed. Frank E. Gaebelein. vol. 2. Grand Rapids, MI: Zondervan, 1988.

Wenham, G. J. “Genesis 1-15.” Word Biblical Commentary Vol. 1. Waco, TX: Word. 2002.



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ブロガー: 西原智彦
1972年広島生まれ。ロボットが好きで工学修士に(1996)。聖書に惚れ込み、実践神学修士に(2005)。(さらに詳しく >>)

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