その創世記3章から罪の悲惨さの度合いを読み取るとき、案外大きな影響力を与えているのが8節冒頭の「そよ風のふくころ」(新改訳)という表現です。そよ風というやさしそうな表現は、罪の悲惨さやそこから生じる神の裁きとは程遠く、かえって罪の赦しや神の愛を感じさせます。NKJV、RSV、NASB、NIVなどでは”In the cool of the day”と訳されていますので、時間帯としては夕刻をイメージさせます。A. フラーはそのような視点にたって、このように記しています。
今でも権威あるヘブル語辞書The Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon (BDB)は、20世紀中ごろ以降の爆発的な考古学の発展(死海写本の発掘や、セム語系諸原語学の発展)以前に出版されたため、ヨームという単語には「日」とは異なる「嵐」という意味があることが分かっていませんでした。アッカディア語のumuには一義的には「日」という意味があり、その関連性はBDBにも記されています(398)。ところが、umuというアッカディア語には二義的に「嵐」という意味があることが分かり、ヘブル語においてもゼパニヤ2:2、雅歌2:17、4:6でのヨームはこの意味であろう、とThe Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testamentには記されています(401)。特にアッカディア語では神々との関わりにおいてumuが使用される場合、嵐という意味をもちます。ニヌルタ(シュメールの神)は「強大な嵐(umu rabu)」とアッカディア語で呼ばれ、アッシュールの神は「怒りの嵐(umu nanduru)」、エンリルの神ベルは「全能のベル、その言葉に変化の影なく、嵐(umu)であるベルは牛舎を壊し、羊の群れを引き裂く」と表現されています。神々を表す嵐という意味合いのアッカディア語のumuと同じ意味合いで、創世記3:8のヨームは用いられて、真の神の裁きを表現した、と理解することができます。「日の風」よりも「嵐の風」のほうが意味が明白です。
その上、レルアッハ ハイヨームという句は「園を歩き回る」という句に修飾して、共に関係節として「神である主」を修飾しています。もし、レルアッハのレ(前置詞)を時を表す前置詞として理解すると、「日の風の時に行き来する神の声を彼らは聞いた」となり、何かアダムとエバが時空を超えた場所から聞いたような不思議な表現となります(The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament. 508. とは異見)。しかも日の風の時、という時がいつなのか分かりません。しかし、前置詞レを場所・方向を表す前置詞として理解すれば、「歩き回る」という動詞と組み合わさり、「嵐の風の中を行ったり来たりする」という表現となり、アダムとエバが罪を犯して隠れてしまったことに対する神の憤り、苛立ちを見事に読み取ることができます。
Koehler, Ludwig, and Walter Baumgartner. The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament. Rev. Walter Baumgartner and Johann J. Stamm, trans. and ed. under the supervision of M. E. J. Richardson. Study ed. 2 vols. Leiden: E. J. Brill, 2001.
Niehaus, Jeffrey J. God at Sinai. Grand Rapids: Zondervan, 1995.