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04/19 2009

【連載1】 聖徒の保持VS堅忍 - 信仰者への命令からの一考

 お気づきの読者の方も多いかもしれませんが、私の組織神学的興味の1つには「聖徒の保持」があります。エントリー「聖徒の堅忍?それとも保持?【課題明確化編】」にて記したとおり、カルヴィニズムの5特性の1つに数えられながら、実践的には限りなくアルメニアン神学と類似している課題です。そして私自身はこの課題に関しては、カルヴィニズムでもアルメニアンでもない、「聖徒の保持」を聖書は支持していると理解しています。そしてこの課題は、カルヴィニズムVSアルメニアンという組織神学的対立関係で捉えるよりも、聖徒の堅忍VS聖徒の保持という実践神学的対立関係で捉えるほうがインパクトが強くなるのではないか、と考えています。これから数回にかけて、随筆的に色々な視点から記して見たいと思います。第一回目は「信仰者への命令からの一考」です。


 聖書の中には、実に多くの命令があり、それはしばしば動詞の命令形として現れます。それが旧約聖書のモーセ律法の中にあるのならまだしも、神の恵みによって救われる福音が明らかになった新約聖書の中にも、実に1631回の命令形が登場し、全動詞の中の8.5%にあたります(Wallace, 447)。すべての命令形が純粋に命令を表しているとはいえませんが、分詞が命令を表す場合も数多くあることを考慮すれば、その割合は増すことはあっても減ることはないでしょう。

 さて、新約聖書における命令についてですが、異教徒の方に向かって「主イエスを信じなさい」(使徒16:31)とパウロが命じることに違和感を覚えるクリスチャンはいないでしょう。イエス・キリストの贖いを自分自身のものとして受け入れ、私の罪の身代わりにキリストが死なれ、私を義とみなし、新しい命と希望を与えるためにキリストが復活されたことを信じる人は、その信仰のとおりになる、これはキリスト教の中心的な教えです。「罪から救われるためには主イエスを信じなければいけない」、この異教徒の方に向かって語られる命令形は、どれほど非難を受けようとも変えることのできない命令形です。

 しかし新約聖書には、すでに主イエスを信じたクリスチャンに対する命令形も数多くあります。同じパウロは「高ぶらないで、かえって恐れなさい」(ロマ11:20)、「神の栄光を現しなさい」(1コリ6:20)、「御霊によって歩みなさい」(ガラ5:16)、「召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ4:1)等々、クリスチャンに向かって数多くの命令をしています。中にはそれは単なる命令ではなく、パウロからのお願いであったり(ロマ12:1)、懇願であったり(2コリ6:1)します。しかしギリシャ語動詞の文法としては、激励の意を表すために用いられる接続法があるにも関わらず、命令形を使うのですから、命令の強弱の差こそあれ、命令であることには変わりません。

 では宗教改革おいて「恵みのみ」といわれた原則はどうなるのでしょうか。神の恵みによって罪から救われ、信仰生活を歩むのであれば、なにゆえに主イエスを信じた後に、命令を受けるのでしょうか。やらなければならないことが多いのであれば、天国への道はあまりにも厳しく、教会はあまりにもギスギスした、律法主義に陥ってしまうのでは?そんな疑念がわくのも当然です。なぜ信仰者がしなければいけない命令があるのか?この「なぜ」を考えるとき、そこに大切な神学的課題が横たわっていることに気づきます。

 アルメニアン神学の体系にたつクリスチャンにとって、信仰者に命令がある理由は「救われた立場を守り続けるため」といってよいでしょう。この神学体系の理解によると、たとえ一度主イエスを信じた人であっても、救いが剥奪されることがありえます。神の選びという恵みによって救われると信じていますが、この神学においては神が一方的に人を救いに選ぶのではなく、「この人は信仰をもつであろう」ということを神はあらかじめ予期して、その予期にしたがってその人を選ぶ、と理解します。ですから救いの根拠は人の側にあり、それゆえに、一度救われた後も、人の悪行の度合いによっては、救いを剥奪されることがあると理解します。つまり神の恵みは神から一方的に与えられるのではなく、恵みを受けるには信仰の始まりから終わりに至るまで人の熱心な信仰心が必要であり、命令を守り続けるならば、救われた立場を守りとおすことができる、という論理が信仰生活を支配するのでしょう。

 ではカルヴィニズムにたつクリスチャンはどうでしょうか。彼らにとって信仰者に命令がある理由は「本当に救いに選ばれていたかどうかを確かめるため」といってよいでしょう。この神学体系の理解によると、本当に神に選ばれて救われたクリスチャンであるならば、かならず命令に従うことができます。というのも、神は選びの民を義認・新生といった信仰のスタート地点に選ばれたのみならず、聖化という信仰成長の通過地点を必ず通るように選ばれた、と理解するからです。それゆえに、「主イエスを信じた」と告白しながら実生活が伴わない人は、実は救いに選ばれていなかった、と理解します。つまり、神の恵みは一方的なのだが、その恵みは信仰の始まりから終わりに至るまで一貫して一方的であり、命令を守ることができない人は最初から救われていなかった、という論理が信仰生活を支配するのでしょう。この恐怖心から解放されるために、かつてのカルヴィニストたちは節制に節制を重ねることで選びを確信し、その節制の結果、資本主義が発生した、というのがマクスウェーヴァー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の骨子だったわけです。

 いつも対立関係で語られるアルメニアニズムとカルヴィニズムですが、信仰生活という実践の場においては、こうして非常に似通った倫理土壌を産み出します。それは「節制に節制を重ねる」という倫理観の高さ、そしてその反面、いつもつきまとう「救いの確信を得たいという恐怖心」です。

 しかし、この点に関して、アルメニアニズムとカルヴィニズム以外の選択肢があるのではないでしょうか。そして聖書はその第三の選択肢を支持しているように私には思えてなりません。その第三の選択肢とは、「義認・新生といった信仰の始まりはカルヴィニズムのごとく神の一方的な恵みであり、聖化という信仰の途中過程はアルメニアニズムのごとく信仰者の責任である」という理解です。

 救いの根拠が人の側にある、というアルメニアン神学が聖書的根拠の薄いものであることは、過去のエントリにおいて何度も取り上げてきました。基本的に聖書は、カルヴィニズム的救済観を支持しています。しかし、カルヴィニズムに行き過ぎている点があるとすれば、それは「選ばれた者は必ず聖化する」という点です。つまり、神の一方的恵みを語るのはよいのですが、その一方的恵みが義認・新生といった信仰の始まりだけではなく、聖化にも一元的に及んでいると理解することによって、「恵みを受けていない異教徒か、それとも高い倫理的歩みを行うクリスチャンか」という二元論に陥る点です。聖書の中には、「たいした聖化を成し遂げることなく、それでも恵みによって天国に入る信仰者」がいますので、そんなに理想的に二元的に割り切るわけにはいきません。

 たとえば1コリント3:15には、イエス・キリストという土台だけを手に入れ(信仰をもち)、その後に土台の上にたてた建物が焼けてしまい(信仰生活がうまくいかず)、それでもなんとか助かるケースが記されています。この仮定法は第一もしくは第三仮定法と呼ばれる仮定の文章構造で、高い可能性でおきる将来を表しています。議論を活発にするために事実でないことを仮定する第二仮定法ではないので、実際にそのような信仰者が残念ながらいるのでしょう。
 また、1コリント11:29-30によると、キリストのからだをわきまえずに主の晩餐を食したコリント教会のクリスチャンの中には、それゆえに死亡した人もいました。「あなたがたの中に・・・死んだ者が大ぜいいます」(11:30)とパウロは言っていますので、死亡した人たちもコリント教会の聖徒たち(1:2)です。彼らは救いを剥奪された、とは記されていません。残念ながら聖化の過程を歩むことは不可能となったが、イエス・キリストという土台だけを手に入れたので、なんとか助かるケースといえるのではないでしょうか。

 この第三の選択肢は、「天国での報いに差がある」という立場と親和性があります。主イエスを信じた人であれば、誰でも天国に入ることができるが、信仰者としてどれだけ主に忠実にお仕えしたかによって、報いには差がある、という理解です。一見したところこの理解には、全く恵みを感じることができません。「天国も結局は格差があるんじゃないか」と思う方もおられるでしょう。しかし、「救われた立場を守り続けるために命令を守る」というアルメニアン的信仰生活や、「本当に救いに選ばれていたかどうかを確かめるために命令を守る」というカルヴィニズム的信仰生活とは比較にならないほど、恵み豊かな理解だと思うのです。どんな信仰生活を送ったとしても、信仰生活という建物の土台であるイエス・キリストの素晴らしさゆえに、御国に入ることができるのですから。もしかしたら、土台の素晴らしさが際立つゆえに、建物による報いの差は誤差のようなもので、「どんぐりの背比べ」のようなものなのかもしれません。

 「なぜクリスチャンに対して、しなければならない命令があるのですか」と問われたとき、「どうせ天国に行くのであれば、なるべく罪の苦しみに打ちひしがれることなく、できるだけ神の栄光を現す人生を歩んでほしい、と神が考えておられるから」と私は答えます。神の一方的な恵みを義認・新生の領域だけに限定して聖化の領域に持ち込まなければ、信仰生活が活き活きとして恵まれる、一見矛盾に思える第三の選択肢が、説教、牧会、信仰生活という現場においては結構重要なのではないか、と思っています。


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Profile

ブロガー: 西原智彦
1972年広島生まれ。ロボットが好きで工学修士に(1996)。聖書に惚れ込み、実践神学修士に(2005)。(さらに詳しく >>)

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